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「ゲーメスト杯」から「闘劇」へ、伝説の成田大会を語る ~対戦格闘ゲーム大会を作った男、猿渡雅史~ <後編>

1991年に登場した『ストリートファイターII』以降、ずっと対戦格闘ゲーム大会を運営してきた元ゲーメスト、元アルカディア編集長の猿渡雅史氏。インタビュー前編ではゲーメスト杯の話が中心だったが、後編では2003年にスタートさせた大会「闘劇」の話をじっくり聞いた。

最後の闘劇となってしまった2012年の成田大会は、屋外で開催したこともあってさまざまなトラブルが発生し、いまや伝説と化している。あのとき一体何があったのか――。

ゲーメストからアルカディアへ

――ゲーメスト杯は1998年の『サイキックフォース2012』が最後となり、1999年には発行元の新声社が破産してゲーメストも終わってしまいました。次に猿渡さんが企画した「闘劇」が始まるまで、3年くらいの間隔があります。

猿渡:ゲーメストがなくなったあと、編集部ごと(当時の)アスキー(のちのエンターブレイン、現Gzブレイン)に移って、ゲームセンター専門誌の「アルカディア」を創刊しました。これが1999年末です。しばらくは、アルカディアを軌道に乗せることがメインの仕事になりました。


このころのゲームセンターは、ゲーメスト杯の流れもあって対戦格闘ゲーム大会をゲーセン単位で実施するのが日常茶飯事になっていましたね。

ただ全国規模でやっていたゲーメスト杯と比べてしまうと、どうしても規模が小さくなってしまう。なので、ゲームセンター同士でつながりができてくるんです。店長たちが集まって「一緒に格ゲー大会しましょう」という動きが出てきたんですよ。

このころの店長っていうのが、ゲーメストを読んで育った世代が多くなっていて、現役プレイヤーも多かったから話が早いんです。何店舗か合同で大会を開催して、店舗代表を出して優勝を決めようとか、いわゆるコミュニティ型の大会がどんどん増えていきました。

それの最たるものがVFR(バーチャファイターリレーションシップ)で、アテナ杯やビートライブカップという大会が生まれます。最初は小規模だったと思いますが、『バーチャファイター』が好きな連中、『バーチャファイター』を推しているゲームセンターの横のつながりでどんどん大きくなっていたんです。これがゲームごと、地域ごとにどんどん広がっていきました。

こうしたコミュニティーの大会はアルカディアでも取り上げて、大会告知ページで紹介したり取材したりして、彼らともしっかり連絡を取り合うようにしていました。

闘劇の始まりは、ある選手のひと言だった

――ゲーメスト杯に続くような、たとえばアルカディア杯をやろう!みたいな流れはなかったんでしょうか?

猿渡:「大会をやりたい!」なんて言っても、会社にとって我々は編集部ごと新参者だったし、アルカディアもまだ軌道に乗ってないのに大会もへったくれもないだろう、という部分もあったので、まずは雑誌をしっかり売ることに集中しましたね。

でもあるとき、ゲーメスト杯で優勝経験のあるオオヌキ選手に言われたんですよ。「猿渡さん、『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』(以下『3rd』)の大会やってくださいよ」って。

――ああ、ちょうどゲーメストが休刊してしまって、大会ができなかったタイトルですね。

猿渡:そうなんです。それを言われると俺は非常に心苦しい部分もあって……。『3rd』はゲーメスト杯でやろうと思っていたから、攻略本も2冊作りました。でも、結局会社が破産してゲーメストもなくなって……『3rd』大会を期待していたプレイヤーに直接言われちゃうと、これは本当に考えないといけないな、と。

いろいろ考えていく中で、ゲームセンターを巻き込む方法を検討しました。アーケードゲーム市場全体が決して元気ではないころですが、それでも頑張っているゲームセンターを我々も応援しなければいけません。だから、ゲーメスト杯のように全国からハガキで出場者を募るスタイルではなく、ゲームセンターで予選をやるようなスタイルにしよう、と。

北は北海道、南は沖縄までのゲームセンターを巻き込んで、全国大会をやる……。次に自分がアルカディア杯というようなものを企画するとしたら。これでやるしかない! と構想してみたものの……そんなの一朝一夕でできることじゃないでしょう?

でも、ゲームセンター同士のコミュニティはあるので、そこと協力することができたら……なんて思っていたとき、ちょうど某イベントでゲームセンターの店長やコミュニティリーダーが集まるタイミングがありました。そこで自分の大会構想を話したんです。

その構想というのは、単発の対戦格闘ゲームイベントじゃなくて全国のゲームセンターを巻き込んで大会をやりたい、というのがひとつ。それから複数ゲームで大会を実施したい、ということでした。

集まったメンバーはそれぞれ別の対戦格闘ゲームコミュニティにいた人だったので、「じゃあ、あなたは『バーチャ』やってくれない? あなたは『3rd』で!」とお願いしました。そのゲームでどういうやり方がいちばん盛り上がるかっていうのは、そのコミュニティリーダーがいちばんよくわかっているじゃないですか。

「それなら超盛り上がる大会ができそうですね!」とみんな手伝ってくれることになりました。


新しいエンターテイメントを目指して

――2003年の第1回 闘劇で扱ったタイトルは、『カプコン VS SNK2』、『ソウルキャリバーII』、『ザ・キング・オブ・ファイターズ2002』、『スーパーストリートファイターIIX』、『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』、『ギルティギア イグゼクス』、『バーチャファイター4 エボリューション』の7タイトル。3 on 3のようなチーム戦も闘劇からスタートしました。

猿渡:新作だとシングルのほうがいいですけど、ちょっと時間が経っているようなゲームだと成熟してくる部分もあってチーム戦のほうがおもしろいかな、と。

予選期間は2~3ヶ月くらいだったかな。全国各地で同時展開できるので、複数ゲームを平行して行っていましたね。

――ゲーメスト杯のときは1タイトルだけの大会で、プロモーション的な意味合いもありました。闘劇ではそのあたり位置づけも変わってきましたよね?

猿渡:ゲーメスト杯のときはメーカーさんが「ここでやりたい」というタイミングで行っていましたが、闘劇ではこちら主導で行っていました。もちろんメーカーさんにはこういう大会をこの時期にやりますので、ゲームタイトルお借りします、ということはお伝えしていましたけど、大会日程等は闘劇側で決めていましたね。

――決勝大会は幕張メッセやディファ有明といったイベント会場で行い、チケットを販売していました。

猿渡:決勝は完全チケットビジネスですね。だからそういう意味で言っても、ゲーメスト杯と闘劇は違います。闘劇は「興行」でした。チケットビジネスもしたし、グッズビジネスもしていましたし。

一般的にスポーツ興行における収益は、「チケット」「スポンサー」「放映権」「商品化」の4つからなると言われています。全部をすべてできたかっていうとアレですが、大会ビデオを作ったりニコ生で配信したり協賛メーカー募ったり、やれることは全部やっていたつもりです。

ゲーメスト杯では、大会に出たい人が雑誌を買ってハガキで応募してもらうっていう、雑誌の販促につなればいいっていうものでしたが、それとは全然違いましたね。

いろんな人に言われたんですよ。「闘劇の予選に出るために、アルカディアを買わせる仕組みがあってもいいんじゃないの?」って。雑誌に予選参加チケットみたいなものもついたほうがいいだろう、と。でもそれはなんか違うなあって思って、やりませんでした。

ゲーメスト杯のときの「ゲーム大会を成功させよう!」という感覚よりも、闘劇ではもっと全然違う分野の新しいエンターテインメントを作り出そうというような発想があったんですよ。

90年代のゲーメスト杯は「ゲームのプロモーションとしてアリだね」という実証ができました。じゃあ今後は「ゲーム大会をエンターテインメントにできるのか」を実証してみよう、と。ビジネス面も含めて、エンターテインメントにできるかという部分を念頭に置いて、ね。

そう考えていくなかで、一番参考にしたのはテレビ番組の『Get Sports』と『ZONE』 なんです。

――スポーツドキュメンタリーですね。

猿渡:そう、こっちはメディアなので、選手を追いかけることができるんです。決勝大会の前も後も。なので、事前にどれだけその対戦をあおれるか、大会後はどれだけ余韻を残せるか……。アルカディアの誌面を使って、闘劇ではそういう方向で盛り上がるものを目指しました。

その選手がいかに練習したか、その結果どうだったのか。闘劇では、そうした選手たちのドラマを追いかけるようなシーンを作っていきたかったんです。普段の練習があって、その先に闘劇という大会があって、みんななそれに向かって日々練習をし、一般プレイヤーはそれを応援する、というようなシーンを目指していました。

なので、事前の選手取材はしっかり行うようにしました。

「A君は〇〇の代表で、予選大会では1回も負けなかったんですよ」
「B君は今回は『3rd』で出場してますけど、もともとは『バーチャ』プレイヤーだったんですよ」

と解説するだけでキャラが立ちますよね? こういう情報を知っているだけで、選手への注目度も変わってくるじゃないですか。それを全選手に対してやっていました。それこそ全国のゲームセンターに電話して取材して、出場選手のことを調べまくって……っていう。

――闘劇立ち上げ段階から、そこまでのビジョンがあったんですか?

猿渡:ありました。ゲーム大会というものをエンターテインメント化していこうと思った場合、どこに重点を置くべきなのかということは、かなりディスカッションをしました。他のスポーツの取り組みをまねてみるのはどうだろう、とか。レギュレーションであったり予選・本選の形式であったり、そういうのはいろんなスポーツを調べてまくって研究しましたね。

演出面も考えました。プロレスのような派手な入場をやってみたいというのも初期からあったアイデアです。エンターテインメントはお客さんを喜ばせてナンボですから。入場料を取ってやっている以上、どれだけ満足して帰ってもらうかというのは重要です。

そのとき限りの打ち上げ花火ではダメなんですよ。シーンを作り上げていく、ということを意識してやってました。


屋外で行われた伝説の成田大会

――最後の闘劇が2012年、成田で行われた大会ですよね。屋外で実施したためとにかく大変だったという伝説の闘劇です。あれからもう6年が経とうとしているんですね。

猿渡:その大会の話もしましょうか。私は以前から複数のゲームを同時進行でやり、観戦者は好きなゲームの大会を見る、というスタイルをやりたかったんです。複数ステージのフェス展開というか。フェスと言うからには、無茶は承知のうえで「屋外でやろう!」と。

場所はいくつか候補地がある中で、最終的に成田になりました。さらには闘劇だけでなく、ゲーム音楽ライブとシューティングゲームイベントも合体して、「ゲームサマーフェスタ2012」と題して開催することになりました。

ただ、規模が大きい大会だったので、全体の足並みを揃えるのがとにかく大変でした。その弊害で完成度が低くなってしまった領域も出てしまったかな……と。「(日差しのせいで)眩しくて画面がよく見えない!」とか「ムシがいる!」とか「暑い!」という部分はある程度想定内だったんですが、夜にかけて急激な気温の変化と夜露で、筐体のモニター基板が故障に至ることまでは読めませんでした。

まあ、そういうことをいろいろ総合すると、結論としては「ゲーム大会を外でやるのはよくない」という感じでしょうか。

――やってみた結論として(苦笑)。

猿渡:やってみたからこそ言える結論じゃないですか。……そんなのやらなくてもわかるだろ! って言われるとそれまでなんですが(苦笑)、でもやってみなければわからないこともありますし。


2012年以降も闘劇が続いていたら……

――もしいまも闘劇が続いていたらどうなっていたでしょう?

猿渡:2012年の成田大会でちょうど闘劇10年、ひとつの区切りとして考えていました。翌年の2013年からは大きく変えていきたいと思っていたんです。だから、あの2012年スタイルの継続はないですね。

じゃあ、2013年以降はどうしていたかというと……。2003年から10年間、闘劇を続けてきた中で、「このゲームを盛り上げたい」という言葉をよく耳にしましたが、この「盛り上げたい」っていう気持ちは打ち上げ花火で終わってしまうことも多いんです。結局はそのときだけで、「シーン」になりません。

私は盛り上げたいというより、「次に繋げたい」という気持ちのほうが強いんですよ。だって、この市場が転がっていかないと、みんな食っていけないでしょう!? 闘劇はそこをずっと意識してやってきましたが、10年も続くと通用しなくなる部分が出てきます。

だから、「もし続いてたらどうなっていたか」という質問の答えですが、全然別ものとは言いませんが、イチから仕組みを作り直していたでしょうね。2003年から2012年までの闘劇のことは一回忘れて、次に繋げるためにも2013年からの10年間を見据えて、それまでの闘劇を超える、新しい大会を作り出していくのが理想でしょうね。

インタビュー・構成:松井ムネタツ

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