CULTURE PCゲームカルチャーに関する情報満載!
ビデオゲーム草創期から対戦格闘ゲーム誕生まで【石井ぜんじの「eスポーツのルーツを求めて」第1回】
目次
eスポーツは、近年欧米からもたらされたビデオゲームを用いた競技、興行である。ビデオゲームで競い合い、その戦いを観戦して楽しみたい。その欲求はプレイヤーにとって自然なものであり、eスポーツという言葉が生まれる前から存在していた。
このコーナーでは、eスポーツ以前に、ビデオゲームを競技として捉えた試みにどんなものがあったのか探っていく。今回はビデオゲームが生まれた1970年代から、対戦格闘ゲームのブームが始まる前の1980年代の状況を、簡単にまとめて紹介していこう。
ビデオゲームには、たかだか40年程度の歴史しかない。しかしビデオゲームはゲームの中の一ジャンルだ。ゲームという大枠で考えれば、その歴史は古代にまでさかのぼる。
ゲームは一定のルールの中で競う競技であり、その意味ではスポーツはゲームの中に含まれる。その点から見れば、スポーツとビデオゲームは、本質的に近いものがある。スポーツとビデオゲームは、もともと親戚のようなものだと思うのである。
とくに球技は、ルール面から見ればゲームそのものであるといってもいい。テニスなどで「1ゲーム先取」という表現をすることからも、それは伺える。
『ポン』は2人対戦で成り立つビデオゲームである。もしこのゲームで対戦大会を開き、マネタイズをすれば、それはeスポーツといえるものになったはずだ。ただ筆者が知る限りでは、当時対戦の大会が開かれたという明確な記録はない。
70年代初期のビデオゲームは、『ポン』に似たタイプの対戦ゲームが多かった。つまりビデオゲームの歴史は、対戦から始まったといっても過言ではない。対戦競技はイベント性があり、eスポーツ向きのジャンルである。
なぜこの当時、対戦ゲームが多かったのだろうか。それはまだCPUを使っておらず、ハード面が貧弱だったことに理由がある。そのため、モニターの上に、人間の代わりをしてくれる複雑な思考を持つ相手を再現することができなかった。ゆえにビデオゲームは、対戦ゲームのフィールドをプレイヤーに提供するにとどまっていた、というわけだ。
70年代後半から、ビデオゲームはCPUを搭載し、プログラムを内蔵するようになる。それに従い複雑な処理を高速で行うことができるようになり、ビデオゲームの多様性は高まった。ゲームの中で、CPUが対戦相手の代わりをすることができるようになり、一人で遊べるビデオゲームが人気を得ていった。その結果、対人戦が中心のゲームは大幅に減っていく。
その典型が『スペースインベーダー』(タイトー・1978年)である。ゲームセンターにテーブル筐体で設置されたこの作品は、全国的に大ブームを巻き起こした。『スペースインベーダー』は1人のプレイヤーが、CPUの動かすエイリアンと戦うゲームである。以降80年代にかけて、ゲームセンターのビデオゲームは1人用のゲームが主流となっていった。
日本では1983年に任天堂がファミリーコンピューターを発表し、家庭用ゲームが一般に普及し始める。しかしこの時代は、ハードが日進月歩で進化していた。そのため同じゲーム機で何年も遊ぶ家庭用ゲームより、ゲームセンターのゲームのほうが一歩時代を先んじていた。
また当時のパソコンはゲーム機としてみた場合、その多くは家庭用ゲームよりスペックが低かった。80年代のPCゲームは、アドベンチャーゲームという独特のジャンルが人気だったが、技術を競うタイプのゲームはあまり存在していなかったように思う。80年代後半にはX68000という、ゲーム機としても楽しめるパソコンが発売されるが、アーケードや家庭用ゲーム機に迫るほどには普及しなかった。ゲームセンターにコアなプレイヤーが集まるのは、必然の成り行きだったのである。
80年代は、ビデオゲームを1人で遊ぶのが一般的な楽しみ方だった。そのため現在のeスポーツのような、対人戦で行うタイプのイベントが行われたという記録はほとんどない。しかし1人用のビデオゲームには、スコアというものが存在した。そこでどれだけ高い点数を出せるかという、スコア争いという形でゲームの技量を競うイベントが生まれることになる
当時盛り上がっていたのが、ゲーム雑誌で行われていたハイスコア争いである。本格的にハイスコア集計が始まったのは1983年末のことで、『マイコンBASICマガジン』(通称:ベーマガ)のチャレンジハイスコアというコーナーで集計が開始された。1986年からはアーケードゲーム専門誌『ゲーメスト』でもハイスコア集計が始まり、その集計は2000年以降、『アルカディア』に受け継がれた。このハイスコア争いはゲーム雑誌が廃刊された以降も有志の手によって続いており、現在はネット上で集計結果が発表されている。
ハイスコア争いは現在のオンラインゲームのランキング集計に近いもので、メジャーなeスポーツの興行スタイルとは違う。しかしゲームで競うという意味では、ハイスコア争いもeスポーツも根本的なところは同じである。日本のハイスコア争いの歴史は30年以上にも及び、これは世界でも類を見ない立派な業績といえる。このハイスコア争いの歴史が、あまり取り上げられていないのは残念なことだ。
ハイスコアを狙うゲームマニアは、月末の集計締切日に備え、ゲームセンターで高得点を出すための方法を研究する。人によってプレイスタイルは異なるものの、ひたすら高みを追及する、求道僧のようなストイックさを持ち合わせている人が多かった。「ゲームは遊びじゃないんだよ」というのは、僕の知人のハイスコアラーが冗談めかして言っていた言葉である。
ちなみに「遊びでやる」という言い方もあり、これはハイスコアラーにとって、全国一位を目指さない遊び方のことである。遊びでやっているといっても、クリア自体が困難なゲームを全面クリアしていたりするので侮れない。
ハイスコア争いはあくまで趣味の領域なので、それによってお金が稼げるわけではない。当時のゲームマニアは学生が多かったので、いかにゲーセンでのゲーム代を捻出するかということもポイントになっていた。ゲーセンの近くで安く食べられる惣菜などを確保し、食費を節約してゲームをしたものである。
このようなゲームマニアが集まるゲームセンターには、ハイスコアノートやハイスコアボードが設置されていた。このボードに、出したハイスコアの点数と、プレイヤーの名前が記される。有名店のハイスコアボードに名前を載せることは、当時のゲームマニアのステイタスとなっていた。
このようなゲームセンターに行くと、カウンターの近くに怪しげな人物たちを見かけることがある。彼らはその店の常連ゲーマーで、話をしながらそのあたりをうろうろしているのである。
彼らはなぜゲームをせずにたむろしているのだろうか。ハイスコアを狙うためには情報が必要だ。しかしこの時代は、まだインターネットどころか、携帯電話も存在しない。情報を得るには、他のゲーセンに見にいくか、同じゲームマニアたちから聞き込むしかないのだ。
それにはマニアどうしの人脈が必要で、ハイスコアを出すにはコミュ力も必要だった。こうしてゲームマニアどうしのつながりが広がっていき、目に見えない全国的な情報ネットワークを作り上げていたのである。
情報が少ない時代だったので、単にゲームがうまいだけでなく、攻略法を自ら生み出せるプレイヤーの価値は高かった。このようなタイプのプレイヤーは雑誌やゲーム攻略本のライターとしてスカウトされ、重宝されることになる。好きなゲームをやって原稿を書き、お金をもらう。筆者自身もその方向へと進んだのだが、広い意味で彼らは「プロゲーマー」の元祖だったといえるだろう。
80年代の中頃までは、ハイスコアを出すのに長時間のプレイが必要なゲームがあった。そんなゲームのハイスコアを狙うには、ゲームセンターの開店と同時にプレイしなければならない。筆者らの間では、このことを“開店ダッシュ”などと呼んでいたものである。
ただスコアを出すのに長時間プレイが必要なゲームは、お店の利益にとってマイナスになる。そのためゲームマニアが排斥されたり、ゲーム自体の難度が上がったりする、という問題も起こった。
そのためゲームマニアは、必ずしもメーカーやお店から歓迎される存在ではなかった。そうでなくとも、当時ゲームセンターは悪とされ、行くだけで不良になると言われた時代である。ゲームマニアを取り巻く環境は非常に厳しかった。80年代においてゲーム系のイベントが少なかったのは、ある意味当然だったのかもしれない。
余談だが、当時ハイスコアの全国集計で1位を獲得することを、「全一(ぜんいち)を取る」と呼んだ。この「全一」という言葉は、今ではその由来を知らない世代にも、時おり使われているように思う。
では陸上競技のイベントのように、ひとつの会場で行ったイベントはあったのだろうか。例は少ないながら、80年代にもそのようなイベントは存在した。
その一例が、『ハイパーオリンピック』(1983年・コナミ)を題材にしたイベントである。『ハイパーオリンピック』は、陸上競技をテーマにしたスポーツゲームの草分けである。メーカーが主催したこのイベントは、国内で予選を行い、その代表者がアメリカの予選を勝ち抜いた選手と戦うという、日米対抗戦の形式をとっていた。
『ハイパーオリンピック』はボタンの連打の速さが重要なゲームである。当時アメリカの選手は、スクラッチと呼ばれる複数の指を使う方法でボタンを連打していた。このテクニックは日本選手には知られておらず、日本は結果的に惨敗したとのことだ。これは筆者が当時の参加者に近い人から伝え聞いた話である。
それでは、現在のeスポーツにつながる対戦ゲームは、どうやって生まれたのだろうか。現在日本で有名なeスポーツのジャンルに、対戦格闘ゲームがある。この対戦格闘ゲームのルーツについて探ってみよう。
日本で本格的に対戦格闘ゲームの対戦が始まったのは、1991年にゲームセンターに登場した『ストリートファイターII』(カプコン)が最初である。それまで格闘ゲームで対戦するという遊び方は一般的ではなかった。しかし『ストリートファイターII』に似たタイプのゲームが、それ以前にまったく存在しなかったわけではない。
対戦格闘ゲームのルーツは1980年代の中頃までさかのぼる。前述したように、80年代は劇的にハードが進化した時代である。その結果、モニターにキャラクターを大きく表示し、人間の身体をリアルに動かすことができるようになった。そこで生まれたのが、1対1で戦う格闘ゲームである。
初期の1対1格闘ゲームの名作に、データーイーストの『空手道』(1984年)がある。この作品は2本のレバーを使い、突きや蹴りなどの技を駆使し、空手の試合を行うというものだ。ゲームセンターに登場するとたちまち人気を得て、似たタイプのゲームが次々と作られるようになっていく。
しかしこの『空手道』は1人プレイ専用で、対戦プレイはまだできなかった。4カ月後には対戦プレイが可能な『対戦空手道』が発売されたのだが、対戦プレイは流行せず、あまり人気が出ないまま終わっている。
そのため残念ながら、『対戦空手道』は現在に続く対戦格闘ゲームの流れにはつながらない存在である。しかし対戦格闘ゲームというジャンルを定義するとき、確実に入ってくるタイトルでもある。この時期に対戦できる格闘ゲームを発売したことは、評価されるべきだろう。
なぜこのとき、対戦プレイが流行しなかったのか。その理由のひとつに、当時ビデオゲームは1人で遊ぶもの、という固定観念が強かったことが挙げられる。ブロック崩しや『スペースインベーダー』のヒットから90年代初頭にかけて、ゲームセンターには対戦ゲームがほとんど存在しなかった。百円でどれだけ長く遊ぶかということを考えて、皆がゲームをプレイしていたのである。
また格闘ゲームを対戦で楽しく遊ぶには、ゲーム自体のクオリティが高くなければならない。戦っていて爽快感があり楽しく、同時に攻撃と防御の駆け引きも存在する。これを両立させるのは簡単なことではない。
今でこそ、対戦で楽しく遊べない格闘ゲームはほとんど存在しない。しかしそれは、過去の対戦格闘ゲームを知っている開発者が作っているからなのである。それを最初に成り立たせるのは、いかに大変なことか。対戦格闘ゲームは、先達の努力と、その積み重ねの上に存在しているのである。
1対1の格闘ゲームは『空手道』から出発し、『ストリートファイター』(1987年・カプコン)を経て、対戦格闘ゲームとして『ストリートファイターII』で花開くことになる。次回は全国のゲームセンターに対戦ブームを巻き起こした『ストリートファイターII』を中心に、数多く開かれた対戦格闘ゲームの全国大会イベントについて紹介していきたい。
■関連リンク
ATARI TABLE PONG(復刻版)
https://www.taito.co.jp/pong
スペースインベーダー
http://spaceinvaders.jp/
空手道
http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/karatechamp.htm
このコーナーでは、eスポーツ以前に、ビデオゲームを競技として捉えた試みにどんなものがあったのか探っていく。今回はビデオゲームが生まれた1970年代から、対戦格闘ゲームのブームが始まる前の1980年代の状況を、簡単にまとめて紹介していこう。
スポーツとビデオゲームはよく似ている
eスポーツとは何だろうか。ビデオゲームを介して人間同士が競う競技、というのが、一般的なイメージだと思う。「eスポーツはスポーツと言えるのか」、という議論をよく聞くが、どうもこの議論には、スポーツはビデオゲームとは歴史が違い、まったく別物である、という思い込みがあるように感じられる。ビデオゲームには、たかだか40年程度の歴史しかない。しかしビデオゲームはゲームの中の一ジャンルだ。ゲームという大枠で考えれば、その歴史は古代にまでさかのぼる。
ゲームは一定のルールの中で競う競技であり、その意味ではスポーツはゲームの中に含まれる。その点から見れば、スポーツとビデオゲームは、本質的に近いものがある。スポーツとビデオゲームは、もともと親戚のようなものだと思うのである。
とくに球技は、ルール面から見ればゲームそのものであるといってもいい。テニスなどで「1ゲーム先取」という表現をすることからも、それは伺える。
草創期のビデオゲームと球技との類似性
ビデオゲームは、ゲームをモニターの上に再現したものだ。最古のビデオゲームのひとつに、アタリの『ポン』(1972年)がある。このゲームは壁に反射するボールを、板を操作して打ち合うものである。『ポン』はピンポンゲームなどと呼ばれることがあるが、ルールとしてはテニスや卓球、エアホッケーに近い。▲『ポン』(画像はWikipediaWikipediaより引用)
『ポン』は2人対戦で成り立つビデオゲームである。もしこのゲームで対戦大会を開き、マネタイズをすれば、それはeスポーツといえるものになったはずだ。ただ筆者が知る限りでは、当時対戦の大会が開かれたという明確な記録はない。
70年代初期のビデオゲームは、『ポン』に似たタイプの対戦ゲームが多かった。つまりビデオゲームの歴史は、対戦から始まったといっても過言ではない。対戦競技はイベント性があり、eスポーツ向きのジャンルである。
なぜこの当時、対戦ゲームが多かったのだろうか。それはまだCPUを使っておらず、ハード面が貧弱だったことに理由がある。そのため、モニターの上に、人間の代わりをしてくれる複雑な思考を持つ相手を再現することができなかった。ゆえにビデオゲームは、対戦ゲームのフィールドをプレイヤーに提供するにとどまっていた、というわけだ。
70年代後半から、ビデオゲームはCPUを搭載し、プログラムを内蔵するようになる。それに従い複雑な処理を高速で行うことができるようになり、ビデオゲームの多様性は高まった。ゲームの中で、CPUが対戦相手の代わりをすることができるようになり、一人で遊べるビデオゲームが人気を得ていった。その結果、対人戦が中心のゲームは大幅に減っていく。
その典型が『スペースインベーダー』(タイトー・1978年)である。ゲームセンターにテーブル筐体で設置されたこの作品は、全国的に大ブームを巻き起こした。『スペースインベーダー』は1人のプレイヤーが、CPUの動かすエイリアンと戦うゲームである。以降80年代にかけて、ゲームセンターのビデオゲームは1人用のゲームが主流となっていった。
ヘビーゲーマーの主戦場がゲームセンターだった時代
80年代から90年代にかけて、ビデオゲームは、ゲームセンターに置かれたゲーム、つまりアーケードゲームが花形だった。それはなぜだろうか。日本では1983年に任天堂がファミリーコンピューターを発表し、家庭用ゲームが一般に普及し始める。しかしこの時代は、ハードが日進月歩で進化していた。そのため同じゲーム機で何年も遊ぶ家庭用ゲームより、ゲームセンターのゲームのほうが一歩時代を先んじていた。
また当時のパソコンはゲーム機としてみた場合、その多くは家庭用ゲームよりスペックが低かった。80年代のPCゲームは、アドベンチャーゲームという独特のジャンルが人気だったが、技術を競うタイプのゲームはあまり存在していなかったように思う。80年代後半にはX68000という、ゲーム機としても楽しめるパソコンが発売されるが、アーケードや家庭用ゲーム機に迫るほどには普及しなかった。ゲームセンターにコアなプレイヤーが集まるのは、必然の成り行きだったのである。
80年代は、ビデオゲームを1人で遊ぶのが一般的な楽しみ方だった。そのため現在のeスポーツのような、対人戦で行うタイプのイベントが行われたという記録はほとんどない。しかし1人用のビデオゲームには、スコアというものが存在した。そこでどれだけ高い点数を出せるかという、スコア争いという形でゲームの技量を競うイベントが生まれることになる
当時盛り上がっていたのが、ゲーム雑誌で行われていたハイスコア争いである。本格的にハイスコア集計が始まったのは1983年末のことで、『マイコンBASICマガジン』(通称:ベーマガ)のチャレンジハイスコアというコーナーで集計が開始された。1986年からはアーケードゲーム専門誌『ゲーメスト』でもハイスコア集計が始まり、その集計は2000年以降、『アルカディア』に受け継がれた。このハイスコア争いはゲーム雑誌が廃刊された以降も有志の手によって続いており、現在はネット上で集計結果が発表されている。
▲『ゲーメスト』(1999年休刊)のハイスコアコーナー(左)と、ゲームセンターにあったハイスコアノート(ZBL-rajiame’s blogより引用) ZBL-rajiame’s blog
ハイスコア争いは現在のオンラインゲームのランキング集計に近いもので、メジャーなeスポーツの興行スタイルとは違う。しかしゲームで競うという意味では、ハイスコア争いもeスポーツも根本的なところは同じである。日本のハイスコア争いの歴史は30年以上にも及び、これは世界でも類を見ない立派な業績といえる。このハイスコア争いの歴史が、あまり取り上げられていないのは残念なことだ。
ハイスコアラーたちが、高得点争いにしのぎを削った日々
筆者は80年代に、雑誌のハイスコア集計のトップを目指し、日夜ゲーセンでゲームをやっていた経験がある。このようなプレイヤーをハイスコアラーと呼ぶが、ここではその当時の様子を簡単に説明していくことにする。ハイスコアを狙うゲームマニアは、月末の集計締切日に備え、ゲームセンターで高得点を出すための方法を研究する。人によってプレイスタイルは異なるものの、ひたすら高みを追及する、求道僧のようなストイックさを持ち合わせている人が多かった。「ゲームは遊びじゃないんだよ」というのは、僕の知人のハイスコアラーが冗談めかして言っていた言葉である。
ちなみに「遊びでやる」という言い方もあり、これはハイスコアラーにとって、全国一位を目指さない遊び方のことである。遊びでやっているといっても、クリア自体が困難なゲームを全面クリアしていたりするので侮れない。
ハイスコア争いはあくまで趣味の領域なので、それによってお金が稼げるわけではない。当時のゲームマニアは学生が多かったので、いかにゲーセンでのゲーム代を捻出するかということもポイントになっていた。ゲーセンの近くで安く食べられる惣菜などを確保し、食費を節約してゲームをしたものである。
このようなゲームマニアが集まるゲームセンターには、ハイスコアノートやハイスコアボードが設置されていた。このボードに、出したハイスコアの点数と、プレイヤーの名前が記される。有名店のハイスコアボードに名前を載せることは、当時のゲームマニアのステイタスとなっていた。
このようなゲームセンターに行くと、カウンターの近くに怪しげな人物たちを見かけることがある。彼らはその店の常連ゲーマーで、話をしながらそのあたりをうろうろしているのである。
彼らはなぜゲームをせずにたむろしているのだろうか。ハイスコアを狙うためには情報が必要だ。しかしこの時代は、まだインターネットどころか、携帯電話も存在しない。情報を得るには、他のゲーセンに見にいくか、同じゲームマニアたちから聞き込むしかないのだ。
それにはマニアどうしの人脈が必要で、ハイスコアを出すにはコミュ力も必要だった。こうしてゲームマニアどうしのつながりが広がっていき、目に見えない全国的な情報ネットワークを作り上げていたのである。
情報が少ない時代だったので、単にゲームがうまいだけでなく、攻略法を自ら生み出せるプレイヤーの価値は高かった。このようなタイプのプレイヤーは雑誌やゲーム攻略本のライターとしてスカウトされ、重宝されることになる。好きなゲームをやって原稿を書き、お金をもらう。筆者自身もその方向へと進んだのだが、広い意味で彼らは「プロゲーマー」の元祖だったといえるだろう。
▲『ゲーメスト』を発行していた新声社は、ゲームセンター「G-Model」を運営していた
80年代の中頃までは、ハイスコアを出すのに長時間のプレイが必要なゲームがあった。そんなゲームのハイスコアを狙うには、ゲームセンターの開店と同時にプレイしなければならない。筆者らの間では、このことを“開店ダッシュ”などと呼んでいたものである。
ただスコアを出すのに長時間プレイが必要なゲームは、お店の利益にとってマイナスになる。そのためゲームマニアが排斥されたり、ゲーム自体の難度が上がったりする、という問題も起こった。
そのためゲームマニアは、必ずしもメーカーやお店から歓迎される存在ではなかった。そうでなくとも、当時ゲームセンターは悪とされ、行くだけで不良になると言われた時代である。ゲームマニアを取り巻く環境は非常に厳しかった。80年代においてゲーム系のイベントが少なかったのは、ある意味当然だったのかもしれない。
余談だが、当時ハイスコアの全国集計で1位を獲得することを、「全一(ぜんいち)を取る」と呼んだ。この「全一」という言葉は、今ではその由来を知らない世代にも、時おり使われているように思う。
80年代に行われたゲームイベント
ゲーム雑誌で行われたハイスコア争いは、月に1回、全国のゲームセンターで出されたスコアを集計するというスタイルである。スポーツに例えると、記録で争う陸上競技などに近い。会場でプレイヤーを集め、一斉にプレイするわけではないので、その点は陸上や水泳の競技会などとは異なる。では陸上競技のイベントのように、ひとつの会場で行ったイベントはあったのだろうか。例は少ないながら、80年代にもそのようなイベントは存在した。
その一例が、『ハイパーオリンピック』(1983年・コナミ)を題材にしたイベントである。『ハイパーオリンピック』は、陸上競技をテーマにしたスポーツゲームの草分けである。メーカーが主催したこのイベントは、国内で予選を行い、その代表者がアメリカの予選を勝ち抜いた選手と戦うという、日米対抗戦の形式をとっていた。
『ハイパーオリンピック』はボタンの連打の速さが重要なゲームである。当時アメリカの選手は、スクラッチと呼ばれる複数の指を使う方法でボタンを連打していた。このテクニックは日本選手には知られておらず、日本は結果的に惨敗したとのことだ。これは筆者が当時の参加者に近い人から伝え聞いた話である。
対戦格闘ゲームのルーツ、1対1格闘ゲーム
1人用のビデオゲームは、スコアで争うことはできるが、あまりイベント向きではない。やはり興行として成り立たせるには、1対1、またはチーム戦で勝敗がつくものが望ましい。実際のところ、eスポーツの題材として取り上げられるビデオゲームは、そのような対戦ゲームがほとんどである。それでは、現在のeスポーツにつながる対戦ゲームは、どうやって生まれたのだろうか。現在日本で有名なeスポーツのジャンルに、対戦格闘ゲームがある。この対戦格闘ゲームのルーツについて探ってみよう。
日本で本格的に対戦格闘ゲームの対戦が始まったのは、1991年にゲームセンターに登場した『ストリートファイターII』(カプコン)が最初である。それまで格闘ゲームで対戦するという遊び方は一般的ではなかった。しかし『ストリートファイターII』に似たタイプのゲームが、それ以前にまったく存在しなかったわけではない。
対戦格闘ゲームのルーツは1980年代の中頃までさかのぼる。前述したように、80年代は劇的にハードが進化した時代である。その結果、モニターにキャラクターを大きく表示し、人間の身体をリアルに動かすことができるようになった。そこで生まれたのが、1対1で戦う格闘ゲームである。
初期の1対1格闘ゲームの名作に、データーイーストの『空手道』(1984年)がある。この作品は2本のレバーを使い、突きや蹴りなどの技を駆使し、空手の試合を行うというものだ。ゲームセンターに登場するとたちまち人気を得て、似たタイプのゲームが次々と作られるようになっていく。
▲『空手道』(ハムスターより配信中アーケードアーカイブス版)
ⒸG-MODE Corporation / Ⓒ2015 HAMSTER Co.
しかしこの『空手道』は1人プレイ専用で、対戦プレイはまだできなかった。4カ月後には対戦プレイが可能な『対戦空手道』が発売されたのだが、対戦プレイは流行せず、あまり人気が出ないまま終わっている。
そのため残念ながら、『対戦空手道』は現在に続く対戦格闘ゲームの流れにはつながらない存在である。しかし対戦格闘ゲームというジャンルを定義するとき、確実に入ってくるタイトルでもある。この時期に対戦できる格闘ゲームを発売したことは、評価されるべきだろう。
なぜこのとき、対戦プレイが流行しなかったのか。その理由のひとつに、当時ビデオゲームは1人で遊ぶもの、という固定観念が強かったことが挙げられる。ブロック崩しや『スペースインベーダー』のヒットから90年代初頭にかけて、ゲームセンターには対戦ゲームがほとんど存在しなかった。百円でどれだけ長く遊ぶかということを考えて、皆がゲームをプレイしていたのである。
また格闘ゲームを対戦で楽しく遊ぶには、ゲーム自体のクオリティが高くなければならない。戦っていて爽快感があり楽しく、同時に攻撃と防御の駆け引きも存在する。これを両立させるのは簡単なことではない。
今でこそ、対戦で楽しく遊べない格闘ゲームはほとんど存在しない。しかしそれは、過去の対戦格闘ゲームを知っている開発者が作っているからなのである。それを最初に成り立たせるのは、いかに大変なことか。対戦格闘ゲームは、先達の努力と、その積み重ねの上に存在しているのである。
1対1の格闘ゲームは『空手道』から出発し、『ストリートファイター』(1987年・カプコン)を経て、対戦格闘ゲームとして『ストリートファイターII』で花開くことになる。次回は全国のゲームセンターに対戦ブームを巻き起こした『ストリートファイターII』を中心に、数多く開かれた対戦格闘ゲームの全国大会イベントについて紹介していきたい。
■関連リンク
ATARI TABLE PONG(復刻版)
https://www.taito.co.jp/pong
スペースインベーダー
http://spaceinvaders.jp/
空手道
http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/karatechamp.htm
【コラム】石井ぜんじの「eスポーツのルーツを求めて」
- 対戦格闘ゲームに見る90年代からeスポーツ時代までの流れ【石井ぜんじの「eスポーツのルーツを求めて」最終回】
- ゲームビデオからたどる「ゲームを見て楽しむ文化」【石井ぜんじの「eスポーツのルーツを求めて」第3回】
- 対戦格闘ゲームの登場と全国大会の開催【石井ぜんじの「eスポーツのルーツを求めて」第2回】
- ビデオゲーム草創期から対戦格闘ゲーム誕生まで【石井ぜんじの「eスポーツのルーツを求めて」第1回】