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ゲームビデオからたどる「ゲームを見て楽しむ文化」【石井ぜんじの「eスポーツのルーツを求めて」第3回】
目次
eスポーツという競技は、ゲームをプレイするプロゲーマーとその運営、それを視聴するファンから成り立っている。他のスポーツ同様に、そのプレイを観戦するファンがいて、そこにお金を落としてくれるから回っていく。
近年は回線が高速化し、動画の圧縮技術が進歩したため、インターネットでの動画視聴が一般的になった。今やeスポーツは動画配信を抜きには語れないといってよい。ゲーム実況も盛んに行われており、それを生活の糧としている人たちもいる。
それでは「ゲームを見て楽しむ」という文化は、いつから、どのように築かれていったのだろうか。インターネットが普及する以前の状況について、詳しく語っていこう。
「ゲームを見て楽しむ」文化を育てた
「ゲームを見て楽しむ」という文化は、ゲームセンターから始まっている。もちろん家庭用ゲームでも友人を家に招いて遊べば、友人のプレイを観てともに楽しむことができた。しかしインターネットが普及するまでの家庭用ゲームは、どちらかといえば誰にも見られずに、1人で遊ぶ場合が多かった。
しかしゲームセンターでプレイした場合は違う。たとえ1人用のゲームでも、そのプレイは遊びに来た人の目に留まる。よほど空いている店でもない限り、誰にも見られずに遊ぶのは難しい。極論すれば、ゲーセンで遊ぶということは、店内で生放送をしているようなものである。
もちろん普通のプレイヤーなら、ゲーセンで遊んでいても特に目立つことはない。しかし腕利きのプレイヤーは、遊びに来た人たちの注目の的になる。80年代においては、人気のシューティングゲームを上手い人がプレイしていると、そのスーパープレイを見ようと多くの人が台に群がったものだ。
その中でも特に印象が強いのは、コナミの『グラディウスII』(1988年)である。2周目以降に進んでいるプレイヤーがいれば、十人以上の人たちがその台を取り囲み、食い入る様にそのプレイを見つめていた。
これらの観客のことを、当時のマニアは「ギャラリー」と呼んでいた。「駅前のゲーセンで『グラII』をやっている上手い奴がいて、ギャラリーがいっぱいついていた」などと言ったものである。ちなみにギャラリーの中には、偉そうにプレイの説明をしてくれる人が時おり現れる。そのような人は「解説くん」などと呼ばれていた。
この時代にはインターネットも動画ファイルも存在しなかったため、スーパープレイを見るにはゲームセンターに行くしかなかった。小遣いの少ない学生たちは、ゲームセンターで遊ぶだけでなく、他人のプレイを見て楽しんだものである。これは80年代だけでなく、対戦格闘ゲームが主流となった90年代でも同じようなところがあった。
このように、ゲームのスーパープレイを見るという楽しみ方は、80年代の時点ですでに多くのアーケードゲーマーに共有されていた。しかしこの時代、まだゲーマーと一般人との間には大きな断絶があった。ゲームマニアはゲームのプレイ自体に価値があると確信していたが、ゲームを知らない人にとってはその感覚がまったく理解できなかった。現在のように「ゲームを見て楽しむ」ことをビジネスとして展開するまでには、長い道のりがあったといえる。
スーパープレイの映像を売った
現代のeスポーツを観戦している人にとって、「ゲームのプレイ自体に価値がある」ということは当たり前である。だからこそ特別なプレイができる、プロゲーマーが生まれるわけだ。ところが80年代ではゲームを知らない人がたくさんいて、「ゲームなんか誰がプレイしても同じ」と多くの人が思っていた。
筆者はゲームマニアなので、昔から「ゲームのスーパープレイそのものに価値がある」と考えていた。そこに価値があるのなら、必ずそれはビジネスになるはずだ。その考えから作られていったのが、アーケードゲームのゲームビデオである。筆者はその黎明期から、これらのゲームビデオの制作に深く関わってきた。
筆者が最初に鑑賞したゲームビデオは、コナミ・シューティング・ベストに収録されていた『沙羅曼蛇』(1986年)である(以下、年号はゲームの発売年とする)。このゲームビデオは新声社のゲーメスト編集部ライターである大和氏のプレイを収録したもので、攻略のポイントがテロップで流れたり、ジョイスティックを扱う手元の映像が入ったりしていた。大和氏は『沙羅曼蛇』の1000万点プレイヤーとして知られており、その映像のプレイは非常にクオリティが高かった。「このようにかせぐのだ」というテロップのセリフは有名である。
筆者の記憶では、確か『沙羅曼蛇』以前にも、市販のゲームビデオが存在していたはずだ。しかしゲームマニアの優れたプレイを収録したビデオとしては、『沙羅曼蛇』が最初の作品といえるのではないかと思う。
この頃から筆者も、プレイヤーとしてゲームビデオの収録に関わっていくことになる。その最初の作品が、タイトーの『ダライアス』(1987年)のゲームビデオである。
『ダライアス』の映像収録の際にプロデューサーと話して思ったのは、ゲームのプレイに対する価値が、映像の作り手に理解されていないということだった。当時のビデオゲーム映像は、環境ビデオとして評価されていた。環境ビデオとは、例えば森の風景や川のせせらぎやらの映像を、ひたすら流し続けるというものである。
プレイの質を問わず、漫然とビデオゲームの映像を流し続ける。当時のプロデューサーは、ゲームビデオをそのような環境ビデオと考えていたように思う。しかしこれは当時多くのゲーセンのゲーマーが求めていた「スーパープレイの映像が見たい」という欲求とは、まったく違うベクトルのものであった。
ゲームのスーパープレイを見るという楽しみは、プロ野球でプロ選手同士のハイレベルな戦いを観戦するという楽しみとその本質は変わらない。草野球は楽しいかもしれないが、プロがしのぎを削る試合を見るのは、また別の面白さがある。だから観客は野球のテレビ中継を見るし、わざわざスタジアムまで足を運ぶのだ。そんなことを、筆者はプロデューサーに説明した記憶がある。
そのうち基板からの信号を同期させるノウハウが確立し、映像の収録にはそれほど時間がかからなくなっていく。筆者はその後、『R-TYPE』(アイレム・1987年)、『ストリートファイター』(カプコン・1987年)、『ニンジャウォーリアーズ』(タイトー・1988年)、『グラディウスII』というタイトルで、ビデオの収録にプレイヤーとして参加した。
ちなみにこの中で、筆者がプレイヤーとして納得のいったプレイが出来たのは、ステージ7の復活パターンを収録できた『R-TYPE』くらいである。また筆者が参加しなかったところで有名なゲームビデオには、オールパシフィスト(弾を撃たすダメージを受けず全ステージクリア)のスーパープレイが収録された『ナイトストライカー』(タイトー・1989年))などがある。
これらのゲームビデオは、音楽、映像制作会社が主に制作していた。しかしこのように映像制作会社を通してゲームビデオを作っていると、制作に多くの人が絡むためどうしてもコストがかかる。そこで筆者は、ゲーメスト編集部が所属する新声社で直接ゲームビデオを作り、販売したらどうかと考えた。それは『ファイナルファイト』(カプコン・1989年)のゲームビデオで実現する。
ゲーメストビデオ第1弾となる『ファイナルファイト』では、プレイヤーに当時のトッププレイヤーを起用し、筆者はディレクターとしてスタジオで編集に参加した。このゲームビデオはほぼ新声社単独で制作したが、完成度、売り上げともに悪くなく、ビジネスとして十分に成り立っていける手ごたえを感じたものである。
対戦格闘ゲームのビデオは、それまでの80年代のゲームビデオと違って、編集するポイントが非常に多かった。例えばシューティングなどのビデオならば、ゲームスタートからそのままプレイを流し続ければいい。しかし対戦は短い時間で終わるので、試合ごと、ラウンドごとに編集する必要がある。その他のコンテンツも入れようとすると、その編集作業はかなり膨大になってくる。
長時間に渡って収録した対戦の映像は、白い箱に入ったVHSテープに入って送られてくる。これは近年アニメ制作の現場を描いて話題になったアニメのタイトルに使われている、“白箱”というヤツである。この白箱の映像にはタイム表示が入っていて、これはキャラ入り映像と呼ばれる。このタイム表示を元に、どこからどこまでの映像を使うのか抜き出していく。そして事前に作った膨大なタイム表示のメモ書きを元に、スタジオでの編集作業に向かうのである。
それ以前と比べると、対戦格闘ゲームの映像制作は、収録にも、編集にも時間がかかるようになった。とはいえ、新たに生まれた対戦格闘ゲームというジャンルの映像を編集するのは、とても楽しいものだった。対戦格闘ゲームの魅力を最大限に表現するには、どのような形がベストなのか。対戦だけではなく、キャラクターや世界観、華麗でマニアックな連続技、対COM戦など、さまざまな切り口を試したものだ。
対戦格闘ゲームの全国大会の映像を
新作対戦格闘ゲームの映像だけでなく、対戦格闘ゲームの大会の映像を商品化するようになったのも、この頃が最初である。新声社が主催するゲーメスト杯の全国大会は、決勝に近づくにつれ白熱したレベルの高い戦いが繰り広げられる。ゲームの大会は参加するのも楽しいが、その会場で戦いを見るのも楽しい。その楽しさをより多くの人に伝えたいということで、筆者らはこの企画を提案させてもらった。
最初に格闘ゲームの全国大会のゲームビデオを発売したのは、SNKの『餓狼伝説2』(1992年)だったように思う。ゲーム大会では、その場に集まった観客が見やすいように、ゲームの筐体以外にも映像を出力する。そこに機材をはさんでおけば、その映像をそのまま録画できるというわけだ。この時点では、すでに技術的には問題なく、このような映像収録が可能になっていた。
今思えば、ゲーム大会の映像をコンテンツとして売るという発想は、現代のeスポーツにつながる新しいものだった。しかし当時はあまり先進的な試みとは思わず、当然のことのように感じていた。制作側としては、価値があると信じるものを、製品化してファンに提供する。その原則に従っただけに過ぎない。前例はなかったが特にリスクが高いビジネスでもなかったので、挑戦しやすかったといえる。
ゲーメストはその後も、新作の対戦格闘ゲームや全国大会のゲームビデオを多くリリースしていった。それは2000年以降、アーケード専門誌アルカディアが主催する、対戦格闘ゲームの祭典である闘劇とそのDVD映像に受け継がれる。その基本の形は、すでに90年代初頭に形作られていたといってよい。
90年代の技術とインフラでは
ゲームビデオを制作するときには、プレイしたプレイヤーに多額の報酬を払うことができるのが理想である。他の人にはできない特別なプレイを披露してくれるのだから、本来そうあるべきだと筆者は思う。ゲームのプレイを見せて、その報酬で生活する。もしそれができれば、それはプロゲーマーと呼んで問題ないだろう。80年代当時から筆者は、ゲーマーがその腕前だけで暮らしていける未来が来ればいいな、というように思っていた。
ところが実際には、とてもではないがゲームビデオのプレイヤーに満足のできる報酬を払うことはできなかった。せいぜい払うことができたのは、バイトの日給にプラスアルファしたくらいの金額である。それは原稿料をもらうゲーム攻略ライターという職業とは、勝負にならない程度のものだった。
なぜゲームビデオ制作で、プレイヤーに満足するお金を払えなかったのか。その理由のひとつは、80~90年代におけるVHSビデオの、制作コストの高さである。編集作業をするには、六本木などの一等地にあるスタジオを予約し、機材もディレクターもレンタルしなくてはならない。この経費がどうしても高額になってしまう。気軽にノートPCで動画編集できる現在とは、大きな差があった。
また細かいことを言えば、対戦格闘ゲームの時代になり、収録時のキャラクター担当プレイヤーの人数が増えたという理由もある。1人で収録できたところが10人以上必要になってくれば、どうしても1人あたりの取り分は少なくなってしまう。
そもそも映像コンテンツを小売の商品として売るという形は、ユーザーの手元に届くまでにコストがかかってしまうものだ。例えばアニメのブルーレイを買うのと、大手の映像配信サイトでアニメ動画を見る金額を比較してみればお分かりいただけると思う。高価な映像商品となると、必然的に広い層にアピールするのが難しくなる。
しかし80~90年代には、映像コンテンツはVHSビデオとして売るしか、選択肢がなかったといえる。まだインターネットは一般に使いやすい形で普及しておらず、動画の圧縮技術が進歩するまでは、重くて長い映像をネットに上げるのは現実的でなかった。その他に映像を届ける手段はテレビしかなかったが、テレビがゲームを扱うことはほとんどなかった。
このように90年代までのゲームビデオは、ビジネス的に広げていくには難しい問題があった。ただしその時のディープなファンには好評であったので、一定の役割は果たしたといえるだろう。
またこれは余談であるが、ゲームビデオにはもうひとつ隠れた狙いがあった。それは当時のゲームプレイの映像を、記録として残す、ということである。インターネットの普及以前は、ゲームのプレイ映像を残す手段はごく限られていた。苦労して築き上げた自分たちのプレイが、失われてしまうのではないかという危機感が常にあったのである。
現在ではネットにゲーム動画を上げることは難しくなく、この世は大量のゲーム動画で溢れている。しかし80~90年代当時の映像という目で見れば、ゲームビデオの映像は珍しいものである。また今後、その価値が再認識される時が来るかもしれない。
劇的に変わったインターネット環境が
このような90年代までの状況に比べると、2000年以降のデジタル動画技術とネット環境の整備は、まさに劇的なものであったといえる。まずDVDなどのデジタル映像メディアが登場したことによって、ゲームの動画編集が簡単になり、制作コストは大幅に削減された。またDVDは薄いため、ゲーム雑誌の付録に付けられるようになったのも大きかった。
しかしDVDの時代も長くは続かなかった。インターネットの高速化と動画圧縮技術の進歩により、動画映像はネットを介して観るのが、今では当たり前になっている。映像は配信サイトで気軽に見られるようになり、定額で見放題のサブスクリプションモデルが一般に普及した。
それによって、ネット関連以外のマスメディアの影響力は大幅に低下した。現在では個人でゲーム動画を編集したり、生実況したりすることが容易になっており、それに対応した広告モデルも確立してきている。
現在のeスポーツは、このようなネットでの動画配信と密接な関連がある。これは過去にはなかった収益モデルであり、eスポーツが新時代のコンテンツと認識される大きな要因になっていると思われる。
時代が変われば環境が変わるので、それまでと形が変わるのは当然のことだ。しかし筆者は、ゲームプレイ動画の価値というものの本質は、アーケードゲームのゲームビデオが作られた、80年代からさほど変わっていないと考える。達人たちのスーパープレイを見て、胸を躍らせる。そんなゲーム小僧だったときのときめきを忘れずに、ビジネスを進めていってもらいたいと思うのである。
近年は回線が高速化し、動画の圧縮技術が進歩したため、インターネットでの動画視聴が一般的になった。今やeスポーツは動画配信を抜きには語れないといってよい。ゲーム実況も盛んに行われており、それを生活の糧としている人たちもいる。
それでは「ゲームを見て楽しむ」という文化は、いつから、どのように築かれていったのだろうか。インターネットが普及する以前の状況について、詳しく語っていこう。
「ゲームを見て楽しむ」文化を育てた
ゲームセンターという場所
「ゲームを見て楽しむ」という文化は、ゲームセンターから始まっている。もちろん家庭用ゲームでも友人を家に招いて遊べば、友人のプレイを観てともに楽しむことができた。しかしインターネットが普及するまでの家庭用ゲームは、どちらかといえば誰にも見られずに、1人で遊ぶ場合が多かった。しかしゲームセンターでプレイした場合は違う。たとえ1人用のゲームでも、そのプレイは遊びに来た人の目に留まる。よほど空いている店でもない限り、誰にも見られずに遊ぶのは難しい。極論すれば、ゲーセンで遊ぶということは、店内で生放送をしているようなものである。
もちろん普通のプレイヤーなら、ゲーセンで遊んでいても特に目立つことはない。しかし腕利きのプレイヤーは、遊びに来た人たちの注目の的になる。80年代においては、人気のシューティングゲームを上手い人がプレイしていると、そのスーパープレイを見ようと多くの人が台に群がったものだ。
その中でも特に印象が強いのは、コナミの『グラディウスII』(1988年)である。2周目以降に進んでいるプレイヤーがいれば、十人以上の人たちがその台を取り囲み、食い入る様にそのプレイを見つめていた。
これらの観客のことを、当時のマニアは「ギャラリー」と呼んでいた。「駅前のゲーセンで『グラII』をやっている上手い奴がいて、ギャラリーがいっぱいついていた」などと言ったものである。ちなみにギャラリーの中には、偉そうにプレイの説明をしてくれる人が時おり現れる。そのような人は「解説くん」などと呼ばれていた。
この時代にはインターネットも動画ファイルも存在しなかったため、スーパープレイを見るにはゲームセンターに行くしかなかった。小遣いの少ない学生たちは、ゲームセンターで遊ぶだけでなく、他人のプレイを見て楽しんだものである。これは80年代だけでなく、対戦格闘ゲームが主流となった90年代でも同じようなところがあった。
このように、ゲームのスーパープレイを見るという楽しみ方は、80年代の時点ですでに多くのアーケードゲーマーに共有されていた。しかしこの時代、まだゲーマーと一般人との間には大きな断絶があった。ゲームマニアはゲームのプレイ自体に価値があると確信していたが、ゲームを知らない人にとってはその感覚がまったく理解できなかった。現在のように「ゲームを見て楽しむ」ことをビジネスとして展開するまでには、長い道のりがあったといえる。
スーパープレイの映像を売った
アーケードゲームのゲームビデオ
現代のeスポーツを観戦している人にとって、「ゲームのプレイ自体に価値がある」ということは当たり前である。だからこそ特別なプレイができる、プロゲーマーが生まれるわけだ。ところが80年代ではゲームを知らない人がたくさんいて、「ゲームなんか誰がプレイしても同じ」と多くの人が思っていた。筆者はゲームマニアなので、昔から「ゲームのスーパープレイそのものに価値がある」と考えていた。そこに価値があるのなら、必ずそれはビジネスになるはずだ。その考えから作られていったのが、アーケードゲームのゲームビデオである。筆者はその黎明期から、これらのゲームビデオの制作に深く関わってきた。
筆者が最初に鑑賞したゲームビデオは、コナミ・シューティング・ベストに収録されていた『沙羅曼蛇』(1986年)である(以下、年号はゲームの発売年とする)。このゲームビデオは新声社のゲーメスト編集部ライターである大和氏のプレイを収録したもので、攻略のポイントがテロップで流れたり、ジョイスティックを扱う手元の映像が入ったりしていた。大和氏は『沙羅曼蛇』の1000万点プレイヤーとして知られており、その映像のプレイは非常にクオリティが高かった。「このようにかせぐのだ」というテロップのセリフは有名である。
筆者の記憶では、確か『沙羅曼蛇』以前にも、市販のゲームビデオが存在していたはずだ。しかしゲームマニアの優れたプレイを収録したビデオとしては、『沙羅曼蛇』が最初の作品といえるのではないかと思う。
この頃から筆者も、プレイヤーとしてゲームビデオの収録に関わっていくことになる。その最初の作品が、タイトーの『ダライアス』(1987年)のゲームビデオである。
『ダライアス』の映像収録の際にプロデューサーと話して思ったのは、ゲームのプレイに対する価値が、映像の作り手に理解されていないということだった。当時のビデオゲーム映像は、環境ビデオとして評価されていた。環境ビデオとは、例えば森の風景や川のせせらぎやらの映像を、ひたすら流し続けるというものである。
プレイの質を問わず、漫然とビデオゲームの映像を流し続ける。当時のプロデューサーは、ゲームビデオをそのような環境ビデオと考えていたように思う。しかしこれは当時多くのゲーセンのゲーマーが求めていた「スーパープレイの映像が見たい」という欲求とは、まったく違うベクトルのものであった。
ゲームのスーパープレイを見るという楽しみは、プロ野球でプロ選手同士のハイレベルな戦いを観戦するという楽しみとその本質は変わらない。草野球は楽しいかもしれないが、プロがしのぎを削る試合を見るのは、また別の面白さがある。だから観客は野球のテレビ中継を見るし、わざわざスタジアムまで足を運ぶのだ。そんなことを、筆者はプロデューサーに説明した記憶がある。
80年代のゲームビデオ制作とその流れ
『ダライアス』のゲームビデオを作っていた当時は、ゲームの基板から出る信号を録画することが難しかった。多くの機材を持ち込み、信号の同期を取るために作業をするもうまくいかず、まる一日が潰れたという経験もした。その日は何もできず、カップラーメンだけ食べて帰ったという記憶がある。そのうち基板からの信号を同期させるノウハウが確立し、映像の収録にはそれほど時間がかからなくなっていく。筆者はその後、『R-TYPE』(アイレム・1987年)、『ストリートファイター』(カプコン・1987年)、『ニンジャウォーリアーズ』(タイトー・1988年)、『グラディウスII』というタイトルで、ビデオの収録にプレイヤーとして参加した。
ちなみにこの中で、筆者がプレイヤーとして納得のいったプレイが出来たのは、ステージ7の復活パターンを収録できた『R-TYPE』くらいである。また筆者が参加しなかったところで有名なゲームビデオには、オールパシフィスト(弾を撃たすダメージを受けず全ステージクリア)のスーパープレイが収録された『ナイトストライカー』(タイトー・1989年))などがある。
これらのゲームビデオは、音楽、映像制作会社が主に制作していた。しかしこのように映像制作会社を通してゲームビデオを作っていると、制作に多くの人が絡むためどうしてもコストがかかる。そこで筆者は、ゲーメスト編集部が所属する新声社で直接ゲームビデオを作り、販売したらどうかと考えた。それは『ファイナルファイト』(カプコン・1989年)のゲームビデオで実現する。
ゲーメストビデオ第1弾となる『ファイナルファイト』では、プレイヤーに当時のトッププレイヤーを起用し、筆者はディレクターとしてスタジオで編集に参加した。このゲームビデオはほぼ新声社単独で制作したが、完成度、売り上げともに悪くなく、ビジネスとして十分に成り立っていける手ごたえを感じたものである。
対戦格闘ゲームのゲームビデオ制作
90年代になると対戦格闘ゲームの大ブームが起きる。この商機を逃すはずはなく、新声社は対戦格闘ゲームのゲームビデオを数多く発売していくことになる。対戦格闘ゲームのビデオは、それまでの80年代のゲームビデオと違って、編集するポイントが非常に多かった。例えばシューティングなどのビデオならば、ゲームスタートからそのままプレイを流し続ければいい。しかし対戦は短い時間で終わるので、試合ごと、ラウンドごとに編集する必要がある。その他のコンテンツも入れようとすると、その編集作業はかなり膨大になってくる。
長時間に渡って収録した対戦の映像は、白い箱に入ったVHSテープに入って送られてくる。これは近年アニメ制作の現場を描いて話題になったアニメのタイトルに使われている、“白箱”というヤツである。この白箱の映像にはタイム表示が入っていて、これはキャラ入り映像と呼ばれる。このタイム表示を元に、どこからどこまでの映像を使うのか抜き出していく。そして事前に作った膨大なタイム表示のメモ書きを元に、スタジオでの編集作業に向かうのである。
それ以前と比べると、対戦格闘ゲームの映像制作は、収録にも、編集にも時間がかかるようになった。とはいえ、新たに生まれた対戦格闘ゲームというジャンルの映像を編集するのは、とても楽しいものだった。対戦格闘ゲームの魅力を最大限に表現するには、どのような形がベストなのか。対戦だけではなく、キャラクターや世界観、華麗でマニアックな連続技、対COM戦など、さまざまな切り口を試したものだ。
対戦格闘ゲームの全国大会の映像を
コンテンツとして売るという発想
新作対戦格闘ゲームの映像だけでなく、対戦格闘ゲームの大会の映像を商品化するようになったのも、この頃が最初である。新声社が主催するゲーメスト杯の全国大会は、決勝に近づくにつれ白熱したレベルの高い戦いが繰り広げられる。ゲームの大会は参加するのも楽しいが、その会場で戦いを見るのも楽しい。その楽しさをより多くの人に伝えたいということで、筆者らはこの企画を提案させてもらった。最初に格闘ゲームの全国大会のゲームビデオを発売したのは、SNKの『餓狼伝説2』(1992年)だったように思う。ゲーム大会では、その場に集まった観客が見やすいように、ゲームの筐体以外にも映像を出力する。そこに機材をはさんでおけば、その映像をそのまま録画できるというわけだ。この時点では、すでに技術的には問題なく、このような映像収録が可能になっていた。
今思えば、ゲーム大会の映像をコンテンツとして売るという発想は、現代のeスポーツにつながる新しいものだった。しかし当時はあまり先進的な試みとは思わず、当然のことのように感じていた。制作側としては、価値があると信じるものを、製品化してファンに提供する。その原則に従っただけに過ぎない。前例はなかったが特にリスクが高いビジネスでもなかったので、挑戦しやすかったといえる。
ゲーメストはその後も、新作の対戦格闘ゲームや全国大会のゲームビデオを多くリリースしていった。それは2000年以降、アーケード専門誌アルカディアが主催する、対戦格闘ゲームの祭典である闘劇とそのDVD映像に受け継がれる。その基本の形は、すでに90年代初頭に形作られていたといってよい。
90年代の技術とインフラでは
映像を売るビジネスは難しかった
ゲームビデオを制作するときには、プレイしたプレイヤーに多額の報酬を払うことができるのが理想である。他の人にはできない特別なプレイを披露してくれるのだから、本来そうあるべきだと筆者は思う。ゲームのプレイを見せて、その報酬で生活する。もしそれができれば、それはプロゲーマーと呼んで問題ないだろう。80年代当時から筆者は、ゲーマーがその腕前だけで暮らしていける未来が来ればいいな、というように思っていた。ところが実際には、とてもではないがゲームビデオのプレイヤーに満足のできる報酬を払うことはできなかった。せいぜい払うことができたのは、バイトの日給にプラスアルファしたくらいの金額である。それは原稿料をもらうゲーム攻略ライターという職業とは、勝負にならない程度のものだった。
なぜゲームビデオ制作で、プレイヤーに満足するお金を払えなかったのか。その理由のひとつは、80~90年代におけるVHSビデオの、制作コストの高さである。編集作業をするには、六本木などの一等地にあるスタジオを予約し、機材もディレクターもレンタルしなくてはならない。この経費がどうしても高額になってしまう。気軽にノートPCで動画編集できる現在とは、大きな差があった。
また細かいことを言えば、対戦格闘ゲームの時代になり、収録時のキャラクター担当プレイヤーの人数が増えたという理由もある。1人で収録できたところが10人以上必要になってくれば、どうしても1人あたりの取り分は少なくなってしまう。
そもそも映像コンテンツを小売の商品として売るという形は、ユーザーの手元に届くまでにコストがかかってしまうものだ。例えばアニメのブルーレイを買うのと、大手の映像配信サイトでアニメ動画を見る金額を比較してみればお分かりいただけると思う。高価な映像商品となると、必然的に広い層にアピールするのが難しくなる。
しかし80~90年代には、映像コンテンツはVHSビデオとして売るしか、選択肢がなかったといえる。まだインターネットは一般に使いやすい形で普及しておらず、動画の圧縮技術が進歩するまでは、重くて長い映像をネットに上げるのは現実的でなかった。その他に映像を届ける手段はテレビしかなかったが、テレビがゲームを扱うことはほとんどなかった。
このように90年代までのゲームビデオは、ビジネス的に広げていくには難しい問題があった。ただしその時のディープなファンには好評であったので、一定の役割は果たしたといえるだろう。
またこれは余談であるが、ゲームビデオにはもうひとつ隠れた狙いがあった。それは当時のゲームプレイの映像を、記録として残す、ということである。インターネットの普及以前は、ゲームのプレイ映像を残す手段はごく限られていた。苦労して築き上げた自分たちのプレイが、失われてしまうのではないかという危機感が常にあったのである。
現在ではネットにゲーム動画を上げることは難しくなく、この世は大量のゲーム動画で溢れている。しかし80~90年代当時の映像という目で見れば、ゲームビデオの映像は珍しいものである。また今後、その価値が再認識される時が来るかもしれない。
劇的に変わったインターネット環境が
「見る楽しさ」を新たなステージへと押し上げる
このような90年代までの状況に比べると、2000年以降のデジタル動画技術とネット環境の整備は、まさに劇的なものであったといえる。まずDVDなどのデジタル映像メディアが登場したことによって、ゲームの動画編集が簡単になり、制作コストは大幅に削減された。またDVDは薄いため、ゲーム雑誌の付録に付けられるようになったのも大きかった。しかしDVDの時代も長くは続かなかった。インターネットの高速化と動画圧縮技術の進歩により、動画映像はネットを介して観るのが、今では当たり前になっている。映像は配信サイトで気軽に見られるようになり、定額で見放題のサブスクリプションモデルが一般に普及した。
それによって、ネット関連以外のマスメディアの影響力は大幅に低下した。現在では個人でゲーム動画を編集したり、生実況したりすることが容易になっており、それに対応した広告モデルも確立してきている。
現在のeスポーツは、このようなネットでの動画配信と密接な関連がある。これは過去にはなかった収益モデルであり、eスポーツが新時代のコンテンツと認識される大きな要因になっていると思われる。
時代が変われば環境が変わるので、それまでと形が変わるのは当然のことだ。しかし筆者は、ゲームプレイ動画の価値というものの本質は、アーケードゲームのゲームビデオが作られた、80年代からさほど変わっていないと考える。達人たちのスーパープレイを見て、胸を躍らせる。そんなゲーム小僧だったときのときめきを忘れずに、ビジネスを進めていってもらいたいと思うのである。
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